小村寿太郎

【代々木】 2005年秋号 (9月1日発刊) 掲載

■ 明治の男

 小村寿太郎には虚像と実像がある。戦後人口に膾灸した虚像は日本の戦後平和主義が生んだものである。すなわち戦争継続を要求する世論に敢然と抗して、ポーツマス条約を結び、日露の平和を達成したという虚像である。 

 実際は、ポーツマス条約の締結に際して、小村は最強硬派であり交渉の打ち切りと戦争の継続を主張し続けた。これを心配したセオドー・ローズベルトが日本の本国政府に直接訴えて、やっと小村を迎え込んだというのが実像である。 

 ポーツマス交渉で小村のどこが偉かったかと言えばそんなことではなかったと思う。強硬論の渦巻く日本の世論の中で、自分は本来はタカ派中のタカ派でありながら、ハト派の汚名を受けつつも、死ぬまで一言の釈明もしなかった男らしさ、それこそ明治の男だったと言える。 

 それよりも、小村の真の偉大さは、その透徹した洞察力、それをあくまでも政策に実現しようという強固な意志力、行動力、そしてその全ての背後にある強烈な国家意識、つまり愛国心にある。  

■ 日本を救った小村の洞察力  

 ロシアの意図に対する小村の正確な読みが無かったら日本はどうなっていただろうか、考えるだけでも肌に粟が生じる思いがする。 

 北清事変を期にロシアは満州に進撃を開始する。明治三三年(一九〇〇)八月にはチチハル、九月には長春、吉林、十月一日には奉天を占領して全満州を制圧する。 

 このときロシアは満州を永久占領する意図のないことを公式文書で声明した。今でも日本の歴史学者の中にはロシアの公式文書を引用してロシアには占領の意図が無かったと言って、日露戦争の意義を否定しようとする人々がいる。 

 現在そんな左翼かぶれの学者の空論があっても、一々目くじらを立てるほどのことはないが、当時の日本、中国、朝鮮にとってはロシアの満州進出は国家存亡の問題であった。

 それでも公式声明を出されると、もう少し様子をみようか、という程度の反応が出るのは普通であり、それがロシアの付け目であった。 

 しかし時の駐露大使小村寿太郎は、すでに九月二十四日の公電で、「ロシアは完全かつ永久的に満州を管理することとなろう」という判断を報告している。

 しかも小村はそれよりも早く行動を起している。小村の判断では、ロシアはどうせ満州を取る。これは、誰も阻止できない。英米を含め欧米列強の誰もロシアを阻止出来る陸軍力をアジア大陸に展開し得ないからである。それならむしろ、日本は、ロシアが取る前にそれを認める代償として朝鮮を日本の勢力範囲と認めさせられないだろうか、と考えたのである。 

 そして十月にはヤルタまで行って保養中のウィッテに会ってそれを説得しようした。驚くべき行動力である。 

 日露戦争に負けた後ならばそれはロシアにとって良い取引だったろうが、当時のロシアは日本など相手にしなかった。ウィッテの反応は、平たく言えば、ロシアが満州を取るのに日本の承認など必要でない。むしろ満州を取れば隣の朝鮮にも当然関心がある、ということであった。 

 ここで小村は早くも、満韓交換論から満韓一体論、つまり韓国を守るためには満州も守らねばならないという考えに切り替える。これは日露戦争直前まで元老を含む多くの日本の指導者が満韓交換論に望みを託したのと較べて感嘆すべき卓見であった。 

 更に、満韓一体論はひっきょうは日満韓一体論でもあった。朝鮮半島までロシアに取られたならば日本の安全も危うくなるからである。 

 この小村の鋭い判断なしでは日露戦争の勝利は無かったといえる。 

 当時の日露の国力軍事力の差は桁違いであり、尋常の勝負で勝てるはずも無かった。唯一の方法は、シベリア鉄道を使ってロシアが兵力を集中する前にこれを撃滅するしかない。 

 明治三七年(一九〇四)初秋の遼陽の大会戦は二十二万五千のロシア軍に対して十三万四千の日本軍で戦った。無謀なようであるがそれ以外方法が無かった。日本側には動員力の限りがあるのに対してロシア側は毎日毎日兵力が増えるからである。そして明治三八年三月の奉天の大会戦ではロシア側は三十二万に増えていた。これに対して日本側は旅順から駆けつけた七万を加えて二十五万、それが日本が搾り出せるギリギリの戦力だった。 

 これ以上少しでも開戦が遅れていたならば日本の勝ち目は無かったと思う。明治天皇、元老始め指導者たちの慎重論を克服して、一日も早い開戦に持ち込んだのは、実に当時の小村外相の働きだったと言って過言でないぐらい小村の意見は終始はっきりしていた。 

 それは外務大臣としての職責の上での小村の貢献である。しかし小村の愛国精神は、その時々の職権にかかわらず、あるいは職を賭しても、発揮されている。  

■ 一身を顧みず国事に奔走す

  明治二十二年(一八八九)大隈重信外相は条約改正案をまとめるが、その中に治外法権を撤廃するための妥協として大審院に外国人判事を入れることとした。小村は当時外務省の一局長であったが、これを国辱と考えて、ひそかに案文をロンドン・タイムズに漏らして暴露し、世論の反発を喚起しこの案を葬ったという。もちろんそれが判れば直ちにクビであるが、その危険を敢えて冒したのである。国益、日本の名誉のためには一身のことなど眼中になかったのである。 

 日清戦争開戦時は、小村は北京の代理公使であったが、東京から国交断絶、開戦の通告が一向にこないのに業を煮やして、これでは開戦の時期を失してしまうと言って、独断で公使館の国旗を降ろして北京を退去してしまう。 

 もっともこのときは、単なる電報の配達の遅れだったようで、入れ違いに訓令が来たらしいが、こんなことは、一身を顧みず国事しか念頭に無い人以外は出来ないことである。 

 明治の人たちの出処進退について、われわれ戦後の日本人が感嘆するのは貧乏を恐れない度胸である。 

 吉田茂のように一生使っても使いきれないような遺産を相続していれば、上司に歯向かうことも、命令に違反することも出来る。しかし小村の貧乏は史上名高いほどのものである。その中で、外務省の高位高官という地位を擲っても自分の信念を貫くということはよほどの純枠さがなければ出来ることではない。 

 外交官だけではない。日本近代史で金権政治の代表のように言われたのは、戦前では星享、戦後では田中角栄であるが、田中は巨億の富を遺したのに対して、星が死んだときは借金しか無かったという。 

 これはどういうことなのだろうかと思う。やはり一度も日本民族が経験したことのない敗戦とその後の窮乏で民族の精神が萎縮して矮小になってしまったのだとしか言いようがない。 

 日本に明治のような時代がまた何時もどってくるのだろうか。それを思うにつけても明治が懐かしい。