陸奥宗光―日本にデモクラシーを遺した孤高独歩・独立独往のひと

2010年12月1日

 明治の時代を担ったリーダーの一人としての陸奥宗光、という題を与えられると、そもそも政治におけるリーダーとは何であろうかという問題に改めて直面させられる。

 と言うのは、陸奥は本来、大衆のリーダーというよりも、孤高独歩の人だからである。

 それには、陸奥が置かれた政治的環境もある。陸奥は、維新の時に朝敵となる間際まで行った徳川御三家の和歌山藩の出身であり、明治政界において藩閥の後ろ盾がなく、孤立無援だった。

 竹越与三郎のエッセイ集「萍聚絮散記」(開拓社)の冒頭「陸奥大伯」によれば、陸奥は、初めて農商務大臣として入閣したころ、大臣になったのだから、もう少し寛容になったらどうだという忠告に対して、「私には藩閥は無い。私独りの力があるだけだ。もし私が、一歩、自分というものを譲ったらば、もう陸奥というものは無い。私は、いつも、白刃を頭上にかざして、人に対していなければならない」と言っていたという。

 しかし、私は、陸奥は、どんな環境にあっても孤高独歩の人だったと思う。それは、陸奥の個人的能力があまりにも卓越していたことから来る、必然的なものだったと思う。

 海援隊に居た時、坂本竜馬は「二本差さずに食っていけるのは、俺と陸奥だけだろう」と評価している。それはまた周囲の嫉妬、反感を呼んだ。そもそも海援隊は、脱藩者の集まりであり、藩閥による差別などは無かったはずであるが、陸奥の独歩の言動は反感を買い、紀州藩の船との衝突事件の際は、陸奥を殺せという動きさえあったという。

 他の比肩を許さない陸奥の個人的能力の例は枚挙にいとまがない。

 鳥羽伏見の戦いのあと、志士たちは、誰もが、天下分け目の全国的戦乱を予想して、それぞれ立て籠もる場所を求めて全国に散って行った。その時に、独りパークス英公使に面会を求め、その足で岩倉具視を訪ねて、新政府が攘夷を捨てて開国すべきことを説き、岩倉と意気投合したのが陸奥である。

 そして、その岩倉の信任を得て、紀州藩の危機を救い、その条件として紀州藩藩政全面改革の権を一手に握り、一時は、紀州藩に国民皆兵のプロシア的軍事国家を築く。

 これはすべて陸奥個人の判断で実行し、かち得たものである。

 その後中央政府において、徳川時代以来の年貢による税制を一挙に改革したのも、日本で初めての予算編成を書き上げたのも陸奥個人の知力だけの賜物である。

 また、国家反逆の罪で獄中に在った間に執筆された著作はいずれも日本思想史に残る名著である。特に、ベンサムの「道徳及び立法の諸原理序説」を完訳し、これと、陸奥が幼時以来学んできた宗明儒学の性理学を比較、両者を止揚して書いた「資治性理談」は、他の追随を許さない独創的な政治哲学書である。

 陸奥の従弟であり、後の政友会の長老である岡崎邦輔は書いている。

「郷里和歌山あたりでは、陸奥を不親切で冷たい人のように難ずる向きがあるが、それは間違っている。陸奥はもっともよく書生を愛した。陸奥は人を見る明があって、努力する人、将来見込みのある人を愛し保護したのである。

 陸奥は常に我々後進を戒めるに、少なくとも自分についてきてくれ、駆け足を必要とする場合に杖をついて歩くようでは道連れにならぬと言っていた。・・・・・・しかし陸奥の歩みが非常に速かったから、彼について行ったものは甚だ少なかった。

 陸奥ほど人才を愛したものはないが、また陸奥ほど才能なきものを顧みなかった者もなかろう。これは顧みるを欲せざるにあらず、顧みる暇がなかったのである。故に、その反面のみを見る者は陸奥を冷たい人のように言うのであるが、いやしくも用うるに足る者はよくこれを包容し、保護し、その才を尽くさしめ、その能を成さしめるに、寸毫も労を惜しまなかったのである」

 そういう人物はリーダーと定義できるのだろうか。ここで引用したいのは、論語子罕第九の顔淵の言葉である。

 顔淵はため息をついて言った。

 「孔子は見れば見るほど高く、切って見れば見るほど硬く刃が通らない。自分を礼と教養で引き寄せる、ついて行くまいと思ってもついていかざるを得ない。自分は才能のあるだけを出しつくしたつもりであるが、先生は更に新しいものを、高々と、掲げて、遥かかなたから、私を招かれる。ついて行こうと思っても、何に由ってよいのかわからない」

 論語註に曰く「天にのぼらんとするも階無きが如し」と。

 陸奥を孔子に較べるのもおこがましいが、私が疑問として提起したいのは、リーダーの資質とは何かという問題である。

 竹越与三郎は、論じている。

「政治家には二種類ある。一つは、能力、識見がそう人に優れるわけではないが、国民の思うところを思い、国民の感じるところを感じ、国民の意識を代表している、こういう政治家は、国民は必ずしも尊敬するわけではないが、理解しやすいためにこれを信頼し、近づきやすいためにこれを好む。わが大隈伯のごときは、この種の人であろうか。

 もう一つは、才能、識見が普通の人の水準以上なので、国民と同じようには感じない。国民が熱する時には冷たく、国民が冷めている時に熱したりする。国民は、その才能、識見は認めても、自分たちとは違う人間だと感じて、尊敬するけれども理解せず、能力は信じるけれども好きになれない。

 そして、その人の方も、いわゆる人望(竹越は、現代語の「人気」の意で使っている)などというものはあてにならないものと考え、孤高邁往、自分の信ずることは実行して、国民がそれをどう感じるかなど考えないこともある。わが陸奥伯のごときは、この種の人であろうか。

 試みに、大隈伯の応接間に行ってみると、実業家、新聞記者、壮士、村夫子、保守党、急進党、町村の役人、どんな人でもいる。一日に三~四回新聞記者に会うこともある。人に会い、人を饗応し、すぐに人を紹介する。人望を得るために、恩義や信頼関係を作ろうとして、よくこれだけ努力をしていると感心する。

 そしてこの人たちの言うことに、ほとんど反対することなく敬服したという顔をして聞いている。時として、全く反対のことに、両方とも賛成している(後に大正時代の政治活動において、昼は品行節制の会において飲酒の害を説き、夜は酒造組合において酒の徳を称えたという逸話もある)。

 陸奥伯はこれと異なる。陸奥伯はデモクラシーが世界の大勢で、日本もそうなるべきだと主張した点では、主唱者の一人であるが、これと同時に、カーライルの言うように、これが能力識見のある人によって指導されないと、凡愚政治となることを懼れている。彼はデモクラシーは信ずるが、平凡な大衆は信ぜず、それを統率する少数を信ずる。

 したがって、陸奥伯は、名もない青年に対して自分の胸襟を開いて議論することはいとわないが、村夫子、田舎政治家には辛抱できない。老大虚名の徒に対しては、白眼して、相手にしない。

 もし誰かが、何か政策論を持ってきた場合、彼は、これを採用するか、そうでなければ直ちに論破する。彼は、表面上感心して見せて、あとでこれを無視するようなことはできない人である」

 

<<「人物識見」より「当選回数」の時代へ>>

 この文章でも見られるとおり、昔の人はよく人物月旦をやった。

 私の記憶では、それは戦後もかなり長い間残っていたように思う。普通の人の集まりでも、あるいは散髪屋での会話でも、誰が総理の器だとか、今は外務大臣の器が居ないなどという表現が普通に使われていた。

 これが変わった一つのはっきりした時期は田中内閣のときである。田中総理は、誰が閣僚の器だなどという基準を決めようがないではないか、当選回数と派閥の推薦で決めるしかない、と明言されたという。

 その前は、日本にはエリート政治の伝統が残っていた。各省の次官まで行った人で、政治家の能力があると思われた人は、各党から競って迎えられ、国会議員に当選するとすぐに閣僚クラスのポストが与えられ、将来の総裁候補となった。私の記憶では、佐藤内閣のときに、大蔵次官だった佐藤一郎氏が自民党に誘われ、当選後日ならずして経企庁長官になったのが、この伝統的な人事の最後であった。

 学歴の無い、いわゆる陣笠クラスは初めから閣僚になることさえ諦めていた。現に、鈴木善幸氏が総理になったときは、「ひょっとすると我々もなれるかもしれない」と陣笠連が色めき立ったという話もある。まだ三十年前の話であるが、今となってはもう昔話である。

 確かに、当選回数で政党内の順位を決めるのはもっとも安易な方法である。それによって、人物見識によって、人間を見分けるという古来政治の要諦である作業から解放されるのである。

 竹越の論文は、「けだし、一世を率いる政治家に二種あり」とかきだして、大隈型と陸奥型を二大タイプとして並べて書いているが、もしこの分類が正しいとすれば、陸奥型は現在の日本では、大隈型との生存競争に完敗して、前世紀の恐竜のように死滅してしまった。

 人に近寄られず、理解されず、親しまれず、実力者や金持でも見識の無いものは無視するような人物は、今の世の中では、とうてい政治家たり得ない。

 さて、大隈と陸奥は、そのリーダーシップによって、それぞれ後世に何を遺したのだろうか。大隈は早稲田大学を遺した。過去百年間早稲田大学が輩出した人材を数えるだけでもそれは偉業と言える。

 そして陸奥は何を遺したのだろう。まずは、伊藤博文とともに、日清戦争と条約改正を完遂して、大日本帝国を遺した。現在我々が享受している高い教育水準、技術水準は大日本帝国時代の遺産である面が多々ある。

 それよりも、陸奥個人のリーダーシップの成果としては、私は、日本にデモクラシーを遺したことが最大の功績だと思っている。

 私は日本のデモクラシーは世界史に冠たるものだと思っている。英米仏いずれも革命、戦乱の中に近代民主主義を樹立したが、日本だけは自由民権運動という市民運動で平和的に達成したものである。

 大正デモクラシーは短命に終わったが、それはデモクラシーの成熟の過程の必然であったと思っている。

 チャーチルの言うとおり、デモクラシーはどうしようもない最悪の政治形態であるが、他のいかなる政体よりもましな政体である。それを知るには英国は五世紀の試行錯誤を要した。日本も、大正昭和の民主政治が党利党略を考えて国家を考えず、利権争いに熱中した(それは今も昔も同じであるが、初めてデモクラシーを体験する日本人を挫折させた)のに飽き足らず、清廉であり行動力もある軍人に政治を託してみたのが悲劇に終わった。

 現在の日本のデモクラシーは世界でも最も安定している。戦後日本は政治の行き詰まりを何度か経験したが、国民はクーデターをしてみたところで、状況が改善されるわけでないことを歴史的経験で知っている。だから日本の民主主義は強固なのである。

 陸奥が育てた人脈のなかで、まず異彩を放ったのが星亨である。明治十四、五年に高揚した自由民権運動が見る影もなく凋落したあと、国会開設まで、自由民権運動の火を灯し続け、その後の自由党、政友会、戦後の自由民主党に至る大河の源を守ったのは星亨である。

 そして憲政初期の危機的な時期の憲政を運用したのも星である。そして「虎のごとき星亨も陸奥の前では猫のようだった」と言われている。

 そして陸奥が死の床に在って、その達成までは成仏しきれないといった議会民主主義を完成させたのは、陸奥を最後まで看取った原敬であった。岡義武先生は、「原敬日記」について触れた中で、原が「自分の心情をこれほどまで縷々切々と書き綴ったくだりは他には見出せない。陸奥の死によって、原は、知己を失ったのである」と書いている。

 星、原を生んだこと、それだけでも、陸奥のリーダーシップの成果だと言える。それが陸奥の独立独往のリーダーシップだった。今後このようなリーダーシップを発揮できる人物が再び日本に現れるのだろうか。