陸奥宗光シンポジウム 基調講演

2013年1月 8日

■極めて近代的な人間だった

 戦前の日本の歴史観を支配していたのは薩長史観です。封建時代で真っ暗だったのを薩長が明治維新をして、世の中をいっぺんに明るくしたという史観。それが戦争中は皇国史観になり、戦争に負けて、米国の占領史観に変わった。占領史観は、日本をすべての意味で無力化するのが目的なので、日本の過去をすべて悪かったことにしました。

 薩長史観も明治維新の前を全否定しています。しかし、18世紀というのは世界的に文化がもっとも爛熟(らんじゅく)した時期なのです。陸奥宗光の父で紀州藩士の伊達宗広は、当時のインテリです。歴史書『大勢三転考』を著したほか、和歌や禅などもよくし、江戸時代の文化の極致から出てきた人です。

 一方、紀州藩は国家的意義のある役割を3回果たしています。1回目は、1619年に徳川家康の息子の徳川頼宣が初代藩主となったことです。大阪、京都の抑えとして、三重県と奈良県の一部を組み入れた55万石の親藩ですから、藩士は江戸の侍と同等のプライド、権威を持っていました。次が吉宗です。紀州藩の改革を成功させたあと、将軍になってそれをそのまま江戸に持ち込み、日本全国の改革につなげました。

 そして3番目が陸奥宗光の改革です。鳥羽伏見の戦いでどちらが勝つかわからないときに、20代の陸奥は大阪で英国公使のパークスに会い、すぐさま京都で岩倉具視にも会って、開国しないといけないと説いた。それで岩倉はそれまで攘夷だったのを開国へと方針転換し、陸奥は岩倉の信任を得て、和歌山の改革を進めました。

 津田出(いずる)と組んで作ったプロシア式の軍隊には、全国の人が恐れおののいて見学に訪れた。西郷隆盛と江戸で会った津田は、「日本中が私のしたようにすればいい」と言い放った。すると西郷は「では、あなたを総理大臣にするから受けてくれ」と言ったそうです。

 陸奥宗光は日本では珍しいルネサンス的天才です。詩を書かせても一流ですし、何といっても英哲学者のベンサムの立法論をみごとな日本語に翻訳しています。陸奥が薩長から毛嫌いされたのは、陽明学と荻生徂徠の思想との違いです。薩長は陽明学なので、天に向かって恥ずべきことがなければ何をしてもいいという考え方です。一方、陸奥に言わせれば、国民のためにならなければ意味がない。税制を改革、法律を改革して、国民のためになることが政治だという考え方です。その意味では、極めて近代的な人間なのです。