戦後平等主義の悪弊

【地球を読む】空虚な「激論」番組 戦後平等主義の悪弊 岡崎久彦(寄稿)

2006年7月2日 読売朝刊掲載

 やや古い話になるが、今年の正月のTV番組に、今後1年間の内外情勢を語る座談会のようなものは皆無だった。

 10年ほど前は、毎年年頭の座談会に招(よ)ばれて国際情勢の見通しを話す機会があった。そのうちに声がかからなくなったので、私ごとき者は無用になったのかと思っていたら、そういう番組自体が無くなっていることに気付いた。

 しかしその後でも、その年の経済情勢、あるいは政局を語る番組はあったように思う。それも今は全く無くなってしまった。

 その理由は何だろうかと思う。説明としては単純に視聴率が取れないということであろうが、その背景には、戦後の平等主義、アンチ・エリート主義が深く浸透して、識者の意見など聞かない、あるいは識者というものの存在自体を認めない風潮があるのではないかと思うに至っている。

 イラク戦争たけなわだったころのテレビのワイドショーは不愉快だった。

 国際情勢などに何の基礎知識もない連中が、庶民感覚とか、主婦感覚と称して喋(しゃべ)りまくる。こっちがまともな話をしようとしても10秒、せいぜい長くて20秒しか話せない。それ以上になると、人の話の途中でおっかぶせて発言する奴(やつ)が出てくる。世の中には、問題によって、どうしても30秒はかけないと説明できないこともあるのだ。もともとちゃんとした説明を聞いて何かを学ぼうというのが目的ではないのであろう。顔を出して、皆のおしゃべりの糸口さえ提供してくれればよい、ということらしい。

 いわゆるワイドショーでなく、真面目(まじめ)な討論番組と言われているものでも問題がある。アメリカのトーク・ショーは、ミート・ザ・プレスでも、フェイス・ザ・ネイションでも、見識のあるジャーナリストが、一人の政治家か専門家を相手に1時間近くその知識、識見を聞き出す番組である。

 日本も昔はそうだった。今のフジテレビの報道2001の前身は「世相を斬る」で、私も出たことはあるが、故福田恆存氏がホストを務めていた。その後ホストは竹村健一氏に代わったが、それでも初めは竹村氏ひとりだったような記憶がある。

 そのうちに次々に出席者の数が増えた。なぜそうなったのか、その背後の考え方の説明は一度も受けたことはなかったが、他のチャンネルも大体同じようなことになって来たようなので、それが流行(はや)りだったのであろう。

 その間孤塁を守ってくれたのは、テレビ東京の渡部昇一氏の番組だったが、それも何年か続いておしまいになった。

 このごろはますますひどいらしい。番組のタイトルが初めから「激論……」となっている。「もっと激しくやって下さい」と注意されることもあるという。出演者が視聴者の前でプロレスのような立ち回りのショーを演じてくれるだけを望んでいるのである

 ◆「高視聴率のシナリオ」空回り 

 これは精神的頽廃(たいはい)である。同じ1時間で、アメリカの視聴者が得る情報の質と量に比べて、日本の視聴者のそれは比較にならないほど貧弱である。

 アメリカの視聴者が学ぶことは、イラクの情勢や歴史についての専門家の知識であり、アメリカの国益、大戦略についての識者の見識である。それに対して日本の視聴者は、自衛隊海外派遣の是非など、どんな素人でも一言は言えることを、大きな声で「激論」しているのを改めて見るだけである。

 これを毎週見せられている日本人の視聴者の教養の蓄積がアメリカ人に劣っているであろうことは明々白々である。それを自覚して謙虚になるのならばまだしもであるが、その生半可な知識でアメリカ批判をするに至っては、恥ずかしくて見ていられない。

 もっとひどい例もある。これは一つの局だけに顕著な傾向であるが、はじめから自分でシナリオを書いて、それに従って録画を編集し直すのである。

 ある時などは、何を言って欲しいか見え見えだった。私がそれを言えばそれだけを引用することは明らかだから、私の説明の部分をちゃんと引用するのが出演の条件だよ、と念を押したにもかかわらず、やはり説明の部分は削除していた。私の説明を引用すると私の論旨の方に説得力が強くなり過ぎてシナリオが崩れるからだろう。今後このチャンネルとはよほど事前に念を押した上でなければ付き合わないことにしている。

 つまり識者から学ぼうとする姿勢が皆無なのである。テレビ局の担当者が学校教育と新聞で覚えた限られた知識の中で、番組のシナリオを作ろうとしているだけであり、日本人の知識、教養に新たに資するところ皆無である。

 担当者は徹夜するような努力はしているようであるが、恐るべきカラ廻(まわ)りである。

 彼らの唯一の説明は、そうやって視聴率の高いシナリオを作ることだと言う。

 それは大衆の反応だけを考え、社会の木鐸(ぼくたく)たるメディアの任務の方は放棄するということであるが、視聴率を上げるということ自体幻想かもしれない。少し前、新聞記事で「徹子の部屋」が記録的なロング・ランを続けている理由は、事前にシナリオを作らないことにある、と書いてあった。当然であろう。

 それぞれ独特な人生を生きて来た個人の貴重な体験を聞く番組であり、ウケを狙った応対のシナリオを事前に作るなど失礼である。

 担当者もそれを知っていると思う。局によってはテレ笑いしながらシナリオを持ってきて、「実際はこの通りにはなりませんから、好きなように喋(しゃべ)って下さい」と言う。実際そのとおりにはならない。局側のスタッフにとっては全くムダな労力である。

 インタビュアー個人の能力識見によるのが正攻法である。福田恆存もそうだった。アメリカの番組もそれぞれそうである。

 それがこんな風になった背後には、おそらく戦後日本の悪平等思想があるのであろう。私は戦後の平等思想の背後には、左翼の影響だけでなく戦時中の軍の思想の残滓(ざんし)があると思っている。「組織でやるんだよ。お前だけ特別な人間と思うなよ」。これは軍隊経験のある人たちの口癖であった。

 そのお陰で識見のある人一人でやれば良いところを、何人、何十人の組織でやろうとするから、カラ廻りするのである。

 若い優秀なテレビ局員がそんなことで貴重な青春の時間を無駄にしているのはいかにももったいない。われこそが、天下に恥じない識見のあるジャーナリストたらんの気概をもって日ごろの基礎的な勉強と教養の蓄積の方にもっと時間を使ってくれたほうが、よほど日本のためになると思うがどうだろうか。

 最近ある有料テレビに加入して、まさに希望通りの番組に接した。それは渡部昇一氏と藤原正彦氏の対談であり、1時間瞬時の緩みもなく両氏の見識を満喫することが出来た。大手のテレビの討論番組から得られる知識とは質量共に次元の違うものがあった。ただし有料テレビはそのためのアンテナ設置とか煩わしいことが多い。従来のチャンネルの奮起を期待したい。